イベント報告

JASSで行われたイベント活動を参加者・運営委員の方にリポートしていただきました。
楽しく充実したイベントの様子をご覧下さい。
2011年11月21日掲載 イベント実施報告一覧へ戻る

544 港区文化財史跡巡り(新橋~赤坂)

     
日時:201111月17日(木) 10:00~14:00  参加者:14名


JR新橋駅烏森改札口前に時間どうり集合した。早速。烏森神社へ参詣。
散策ルートは写真に従って説明をします。



烏森神社

烏森神社は新橋駅近くにある飲食街のなかにある小さな神社。

由緒によると平安時代中期に平将門の乱を平定した藤原秀郷は勧請した
ものと伝えられている。

天正18年(1590)に焼失して、江戸時代初期にこの地に武家屋敷になりましたが、古社地跡ということで再興したものです。
浅野内匠頭切腹跡(都指定旧蹟)

現在の日比谷通りに、また道路工事のため石碑は撤去されていてなにもない。案内板のみ。道路の工事が終われば元の所に復元されると思います。

歴史の紐をほどきますと、元禄14(1701314日、江戸城内松の廊下で吉良上野介に対する刃傷のあったその日のうちに、十分な吟味も行われず、奥州一関藩田村右京大夫の上屋敷に送られて切腹させられました。「浅野内匠頭終焉之地」の石碑が建てられました。
   
愛宕神社

標高26mの洪積層丘陵で、頂上に愛宕神社が鎮座しています。江戸時代から信仰と見晴らしの名所として賑わいました。

参道には86段に及ぶ石段は馬で上下し、馬術の優秀さを示す場所となり、23名の成功者が伝えられている。

山頂南側には大正
14年(1925712 日にNHKラジオ放送が開始された場所でもあります。

   


栄閑寺(杉田玄白墓)


栄閑寺は「サル寺」とも呼ばれ、本堂には建物の梁が猿が支える精巧な彫刻が施されている。

江戸時代のである建物である。
   


杉田玄白墓

杉田玄白は江戸中期のオランダ外科医で、蘭学の祖といわれています。

明和
8(1771)小塚原で女囚の解剖を参観し、オランダの
ターヘルアナトミヤ(解剖書)の正確さに驚き、前野良沢らと同書の翻訳を志しました。4年かかって刊行したのが「解体新書」でした。

   
   
仙石伯耆守邸跡(都指定旧蹟)

  現在消防会館


元禄のころ、このあたりに大目付仙石伯耆守久尚の屋敷がありました。

元禄
15(1702)1215日、吉良邸討ち入り果たした赤穂浪士は仙石邸に出頭し、ここから細川・毛利・水野の四家に預けられました。
消防ビル会館の中には、その時浪士が足を洗ったと伝えられる井戸が再現されています。

 
澄泉寺 (林鶴梁墓)(都指定旧跡) 写真はなし

今年3.11の地震と台風15号の影響により林鶴梁墓が倒壊し工事中のため中には入れないため写真はありません。
林鶴梁は嘉永6(1853)遠州中泉の代官に任命され、凶作に際して救済と貯蓄をもって対処し、大いに冶水工事を計って成功したといわれています。
ペリー来航に際し鎖国策の強化を説いたため、幕府首脳から排斥されて野に下りました。その後は麻布に学習塾を開き、教育に従事したといわれています。


 
   

勝海舟邸宅跡

勝海舟が明治5年(1872)50歳の時から、明治32年に77歳で没するまで住んでいたところです。現在はビルが建ち面影はありませんが歴史的に重要な位置をしめしています。

万延元年
(1860)臨海丸船長として太平洋横断に成功し、帰国後軍艦奉行となり、幕府海軍の創設に尽力をしました。慶応4年(1868)3月13・14日、西郷隆盛と会見し、江戸無血開城に成功しました。江戸の人々を戦火から救い、徳川家を滅亡から守った功績は大きものがあります。

 
赤坂氷川神社前全員集合写真

赤坂氷川神社社殿は、第8代将軍吉宗が享保15年(1730)に建立したものです。

吉宗は元赤坂に藩邸があって紀州の出身で、この神社を産土神として崇敬をし、その祭礼は「御用祭」として盛大でした。

現在も各町会で持つ祭礼山車の人形が残され、祭礼には町会毎に飾れます。

    浅野土佐守邸跡

同じ敷地内に、元禄時代浅野内匠頭夫人遥泉院の実家があり、夫の事件以後夫人はここに引き取られました。

大石内蔵助が討ち入りの前日に最後の別れの挨拶に訪れ、「南部坂雪の別れ」として歌舞伎などで有名になったところです。
 
   

南部坂

大石内蔵助が遥泉院の邸宅を訪れ最後の別れの挨拶をして雪が降るしきるなか南部坂を下って帰っていたという。

 
     
   (運営委員 伊藤照男 記す)      イベント実施報告一覧へ戻る