イベント報告

JASSで行われたイベント活動を参加者・運営委員の方にリポートしていただきました。
楽しく充実したイベントの様子をご覧下さい。
2011年10月10日掲載 イベント実施報告一覧へ戻る

501 日光街道行く三ノ輪から北千住史跡めぐり

     
日時:201110月07日(金)10:00~14:30   参加者:9名 

場所:江東区・荒川区・足立区


イベント・コースの狙いは東京北部の三地域の歴史が残る神社・仏寺を巡りました。

●淨閑寺(投込寺)
淨閑寺は浄土宗の寺院で栄法山清光院と号する。安政二年(1855)大地震の際に、たくさんの新吉原遊女が犠牲になり投げ込み同然に葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになりました。
花又花酔の川柳に「生まれた苦界、死しては淨閑寺」と詠まれ、新吉原の総霊塔が建立した。壇徒の他に遊女やその子どもの名を記した寛保元年(1743)から大正15年(1926)にいたる十冊の過去帳が保存されているそうです。遊女の暗く悲しい生涯に思いはせて作家永井荷風がしばしば当寺に訪れています。「今のさきわかき人々」にはじまる荷風の語碑は総霊塔の前に建てられたものです。荒川区教育委員会の案内板はそのような説明書きに詳細に記されています。

●浄土宗公春院(公春院の松)
かつて公春院の松は明治の末頃で周囲4m、高さ14mの樹齢は優に500年を超すものであったといわれている。「編暦雑記」文政12年にも東武三十六名松の一つ「証拠の松」として記されています。江戸時代は新しく寺院を建てることは禁止されていました。幕府の役人が当寺の開創年代調べに来た際に、松の雄大な様子を見て、新しい寺院ではないことを証しました。以来「証拠の松」呼ばれるようになったという住職さんの説明でした。この松は老齢化により、危険なため最近切ってしまったそうです。新しい松が寺院の風よけとして2本の松を植えたという。(住職の説明)

●眞正寺門前町
寛文元年(1661)眞正寺が浅草から当地に移ってこられた。東西20間3尺、南北24間2尺[面積1,600平方メートル]の土地がある。荒川区におけるただ一つの門前町である。町奉行所の支配地で寛永2年(1749)3月の火事で類焼後、家作と畑地に分けられた。明治2年(1869)地名を下谷眞正町と改めたが、同年12年(1879)下谷通新町に合併された。という。
お寺の本堂は大変立派です。(荒川区教育委員会資料)

●百観音 円通寺(寛永寺黒門)
延暦十年(791)奈良時代、坂上田村痲呂が開設したと伝えられる。また、源義家が奥州を鎮圧したとき、打ち取った四十八の首を寺城内の埋めて、塚を築いたのでこのあたりを小塚原と呼ぶようになったという。現在その塚は現存している。秩父、坂東、西国霊場の百体の観音像安置した観音堂があったことから「百観音」と親しまれたが、観音堂は安政二年(1855)の大地震で倒壊した。
また、境内には、石造七重塔、彰義隊士の墓があります。永仁四年(1296)銘はじめとする板碑四基(区指定文化財)がる。
さらに明治維新の折、慶応4年(1868)に行われた上野戦争でなくなった彰義隊の隊員の遺体を上野公園の西郷隆盛像があるあたりでこの寺の住職が憐れみ火葬を行っている。当寺に埋葬した。そのため、この寺には火葬を行った近くにあった上野寛永寺の総門[黒門]は移送されて昔のままの状態にある。亡くなった彰義隊の隊員の墓もあります。

●素盞雄神社(すさおうのじんじゃ)
神社は小塚原、三ノ輪、下谷通新町、三河島、町屋など区域内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「天王様」と呼ばれる。
石を神として尊崇する信仰は全国各地でも見られるもので、当社も石信仰に基づく縁起を有する。それによると、延歴十四年(795)荊石(けいせき)が微妙な光を放ち、その光のうちに二神(素盞雄命、事代主命(ことひろぬしのみこと)が現れて神託を告げたという。その石は「瑞光石」と呼ばれ、出現された二神を祭神として祀る。「瑞光石」と呼ばれる碑があるが肝心の石はないのでがっかりした。どなっているのかわからない。
神事行事としては宝暦年間頃(1751~64)迄に行われた千住大橋綱引きはその年の吉凶を占う神事行事が「東武歳時記」(天保9年)にその勇壮な様子が描かれている。

●橋戸稲荷神社
この社は延長4年(926)に創建された。
千住では歴史の古い神社である。はじめは千住渡し場のほとりの小高い丘に小さな社が造られ、土地の開拓農民や荒川の上流から江戸に荷物を運ぶ船頭たちの信仰を集めた。雑賀見、倉稲命と称し、本殿は延徳2年(1862)建立した。現在の本殿は土蔵造りで戸を開くと左右に伊豆長八作の雌雄二匹狐の彫刻が見られます。

●奥の細道・矢立の地
松尾芭蕉は愛弟子1人を連れて600里の大旅行をこの千住大橋から出発しました。数々の名句を作りながら奥州街道をのぼり最後の旅に出ました。
日光、白河、仙台、松島、石巻、中尊寺、鳴子、山形立石寺、日本海に入り、村上、新潟、直江津、北陸・永平寺を経て、大津に至り、大垣で最後の命を尽きました。故郷である生誕の地、大坂までは辿りつけなかったのである。

●源長寺(石出掃部墓所)
浄土宗稲荷勝利院源長寺と呉。慶長三年(1598)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により同十五年(1610)一族の菩提寺として開かれましたが、千住大架橋に尽くした郡代伊那備前守忠次を敬恭してその名にちなむ寺号にして開基している。本堂は阿弥陀如来。墓地には石出掃部亮吉胤(区指定記念物)のほか、大坂冬の陣西軍の武将矢部和泉守の墓がある。

●勝専寺(千住発祥の地)
三宮神山大鷲院勝専寺は文応元年(1260)に蓮社阿上人が開山。江戸時代には千住宿の一つでもあった。将軍のお鷹狩りの際にはご休憩所となり、また本陣代行として日光参拝の公家や日光門主が休憩や宿泊とった寺である。赤門は普段は開きませんが1月と7月の15~16日の閻魔詣でに解放され境内や門前に出店がでます。昔でいえば藪入りと重なっていましたから商店の小僧さんたちがにぎやかに出入りしていたのでさぞかし賑わったことでしょう。(北千住のプログ参照)

淨閑寺(投げ込み寺)
浄土宗公春院(証拠の松)
眞正寺門前町
 
  百観音 円通寺(寛永寺黒門)
 
 素盞雄神社(すさおのじんじゃ)
 本殿
奥の細道 矢立初めの地  (松尾芭蕉旅たちの地
 
  千住大橋
 
おくのほそ道せんじゅ旅立ち地 (千住大橋の船場の壁)
 
  芭蕉が辿った地図
 
源長寺(石出掃部墓所)
 
  北千住割烹料理「勇駒」食時前  (全員集合)
 
 
   (運営委員 伊藤照男 記す)      イベント実施報告一覧へ戻る