日時:平成23年07月28日(金) 参加者:11名
久しぶりの真夏の暑さになった。集合場所である東急目黒線武蔵小山駅に時間どうりに集合してくれました。皆さんの顔を見ると元気そうで、今日のイベントに意気込みが感じられた。最初は「林試の森公園」へ訪れました。林試公園について簡単に説明をしますと次のとうりです。
○林試の森公園
明治33年(1900)に当時の農商務省林野整備局が「目黒試験苗圃」としてスタートしたのが始まりで、その後「林業試験場」に名所変更、林野庁の付属となり昭和53年迄使用されてきました。その後、筑波学園の都市建設に伴い、「目黒公園」の暫定期間を経て、平成元年6月1日に「都立林試の森公園」として生まれ変わって、都民の憩いの公園として使用されるようになった。
公園には鬱蒼とした森林と植物、珍しい小鳥の住処となっています。散策を続けると木の下は大変涼しく爽やかに感じられました。
○目黒不動(瀧泉寺)
林試の森公園から7分ぐらいの所に江戸時代、大山参りは必ず目黒の不動さんに立ち寄って、参詣してから大山に向かったそうですが、現代でも目黒不動にお参りする人が絶えません。特にご縁日では信者の人が多くさん参詣に訪れ、商店街は昔ながらの賑やかさを保っています。
目黒区の区政情報によるますと、目黒不動は天台宗寛永寺の末寺で、目黒不動尊縁起によれば「慈覚大師が少年時代、現在の地に宿をとった時、神人の夢を見た。その後大師が青年になり、唐に留学をして、ある日長安の清竜寺を訪れ、不動明王を拝んだところ、それが少年時代のころ霊夢に感じた神人と同じ姿であった。
大師は奇異に感じ、帰朝後早速不動尊を彫刻し、これを目黒の地に安置したと言われています。また、貞観2年(860)に清和天皇より「泰叡」の勅額を賜り、山号「泰叡山」と称するようになったとのことです。
○青木昆陽の墓
目黒不動の裏手に昆陽の墓がある。墓には「昆陽先生之墓」となっている。そばに目黒区の説明文の案内板がなければ青木昆陽先生のことを知らなければ見過ごしてしまうほどひそりとお墓である。
説明書きを読みますと、青木昆陽は江戸日本橋に生まれ、幼いころからの学問好きであった。享保4年(1719)に京に上り、儒者伊藤東涯に学んだ。昆陽が甘露のこと知ったのはこの頃だといわれている。その後江戸に帰った昆陽は町奉行大岡忠相に推挙され、以後幕府に仕えた。享保17年(1732)に大飢饉がおこった。
昆陽は、甘露が地味の肥えていない土地でも十分に生育すること目をつけ「蕃薯考」を著し幕府に上書した。これが将軍吉宗に取り上げられ、甘藷の試作を命じられたといわれています。今日みられる「さつま芋」はこれがきっかけとなりました。
○大鳥神社
神社の縁起によれば日本武尊(にほんたけるのみこと)の父の時代、すなわち景行天皇時代、ここには国常立命(くにのだちのみこと)を祭った社があった。日本武尊は東征の途中、この社に立ち寄り、東夷の平定と部下の眼病平癒を祈願したところ、霊験がたちどころに現れた。そこで日本武尊は感謝して、手近の持っていた十握剣(とつかのつるぎ)を社に奉納したという。
大鳥神社の建立には、こうした言い伝えがある。同社の創建年代は諸説があるが「大同元年(806)に神勅によって社殿が造営された。」とある。ちなみに現在の社殿は昭和37年に完成したものである。
ところで「大鳥」という社名の由来は「日本書紀の記述に「尊(みこと)の亡骸を伊勢の国の能褒野(のほの)に葬るましたところ、尊の御霊は白鳥となり陵[もささぎ]寄り出て、倭国をさして・・・飛ばれ」とある。これが白鳥の伝説の一説で、同社は「尊の御霊が当地に白鳥として現れ給い、鳥明神として祀る」とも伝えられている。こんなところに「大鳥神社」とも呼ばれるゆえんであろう。
いずれにしても11月の「お歳様」の日には商売人・芸者数・一般の人で、すごい賑わいを見せます。
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